松島

“そもそも、ことふりたれど、松島は扶桑第一の好風にて...”

芭蕉の美文調はここでも如何なく発揮されていて、

後世の人達がやれ「東関紀行」のプロットを

真似ているなどと言うけれど、気持ちよく

簡潔に流れる文章は見事そのものだ。

芭蕉は杜甫を師と仰ぎ杜甫と同じ人生を

歩みたいと望んでいるからも、また平安から

この時代までも漢文を学び中国の地名に

写真など無い中でそれぞれのイメージを

ふくらましているのを窺い知れるように

松島を洞庭湖、西湖に恥じないと言っている

のは、欧米文化が皆目ないから当然だが

やはりここは中国文化が似つかわしい。

象潟を西施に例えていることから、松島を

楊貴妃(ヤングイヘイ)にダブらせている解釈

はいやに艶っぽい。

“松島や鶴に身を借れほととぎす”

曽良の作と書かれているが、曽良が他で触れて

ないこともあって、芭蕉の作だが拙作なので

曽好の名を使っていると疑われているそうだ。

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壺の碑(いしぶみ)

“ここに至りて疑ひなき千載の記念(かたみ)、

今眼前に古人の心を閲す。

行脚の一徳、存命の喜び、羇旅(きりょ)の

労を忘れて、涙も落つるばかりなり”

壺の碑に会えて、今まで歌枕を訪ね歩いた

旅を重ねたが、ここで初めて満足のいった

歌枕に会えた喜びはそのまま受け取る

べきだろう。

今も残っているそうだが徒歩ではきついようだ。

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宮城野、壱の碑

山形の立石寺で芭蕉の手紙が先日発見されて、

この手紙から「おくの細道」の随行を芭蕉が

曾良ではなくて路通をあてにしていたんでは

ないかと学界では言われていたことが明確に

なったほど貴重な発見だったそうだ。

元禄二年に「おくの細道」に出るのだが、

その直前に芭蕉が伊賀上野の俳人猿スイに

宛てた手紙に、“能(よき)道づれ、~此僧に

さそはれことしも~”とある「此僧」とは路通

ではないかと推測されていたものの実際の

随行は曾良に間違いがないのでこの確証

が得られないまま今日まで来ているのを

今回の手紙発見で明確になった。

路通は風狂の世界にはぴったりな

人物ではあったが世俗では詐欺的で

同人間で評判が良くなく、出発間際に

断わりも無く消えたのは、芭蕉はがっかり

したものの本人も分かって行動したようだし、

曾良だったからこそ“随行日記”を残して

くれ、路通は「おくの細道」の終わりの

大垣には出迎えに来たことからも想像

がつく。

と言うように国文も数独も解くことには

同じだ。

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武隈の松:おくの細道

このブログに移ってきてからついに一年目を

向えてまあよく続いたものと感心。

さて市民講座の後期が始まって一つが

この「おくの細道」で一年前の続きから

始まった。

講義を聞いていて、この古典の学問研究者

は数独に似ている手法で読み込んでいる

ようだ。

この武隈(たけくま)の松の段でも、

“能因法師思い出ず”の一文がどうやって

この段に出てくるのかを調べられ るだけの

古典文献を漁って、つまり縦横全体など

手段を使い切って、これしかないと言う数字を

突き止めるのが数独だが、古典学もそういう

突き止めることを楽しみにしているようだ。

歌枕名勝を訪ねるのを重ねながら旅が

進んでいくのだが、訪ねてみるとこれが

なかなか満足のいく名勝が少なく、すでに

11の名称が終わったが喜びの文章が

書かれたはこの武隈の松でやっと4番目

という具合だ。

松と言えば、“ローマの松”これはクラシック

の題名にもなっているが、またハワイの松も

本来の名称を忘れたが俗称“おそ松”とも

言われてそれぞれ別の表情をしていた。

A

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浅香山・信夫の里/飯塚の里/笠島

最終回の講座だったために予定した段までを

終わらせることから三段もの急ぎの講義だった。

古文そのものには、段落も題が無くて後世

専門家が分けたり題を付けたりしたんだそうだ。

「おくのほそ道」が歌枕を訪ねる旅であるのを

この段落ではそれをよく表している。

浅香山では藤中将実方が陸奥の配所で詠った

「花がつみ」を訪ね、

信夫の里では「しのぶ文字摺りの石」を訪ね、

“早苗とる手もとや昔しのぶ摺り”

飯塚の里では義経に従って出陣した佐藤継信

兄弟の父親の旧跡を訪ね、彼らの嫁達の名声に

涙し、

義経・弁慶を想い、

“笈も太刀も五月に飾れ紙幟”

その夜は

漢文調で西行・李白・杜甫のように旅の途上で

死んだ先達へのあこがれからくる覚束なさを書き

笠島では藤中将実方の塚を訪れようと試みながら

疲れと道の悪さからやり過ごしている。

“笠島はいづこ五月のぬかり道”

Photo

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須賀川

この段は白河の関を抜けて、いよいよ本格的な奥州路に

入った感慨を覚えながら、付近の俯瞰を記したあとに、

俳壇での先輩にあたる等窮(とうきゅう)宅に滞在して

一巻が百韻(句)を三巻も作ったとある。

このことを『俳諧書留』に

“等窮子を尋ねて、かの陽関を出て故人に逢なるべし”

と書いているが、

これは、王維の“送元二使安西”

渭城朝雨浥軽塵

客舎青青柳色新

勧君更盡一杯酒

西出陽関無故人

の陽関を出れば友達もいない、の逆を書いているのが

楽しい。

ついでに爺としては

君に勧む更に尽くせよ一杯の酒

の句に惹かれるし、

さらにさらにもうこの唐の時代にも

埃がすでに凄かったとの書き出しに

驚かされるな。

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白河の関

二度ほど講座を欠席してしまったので、“白河の関”の段

はもう過ぎてしまったと諦めていたら、なんとセーフ !

助かった。

白河の関は何と言っても中世以前から、“みちのく陸奥”

“えぞ蝦夷”との境として、つとに有名で、さて芭蕉一行

はどう越えたんだろうと、どうしても聞きたかった段だった。

内容に触れる前に、

大変うかつながら、“白河の関”は三か所もあって、

さらに遠い時代にとっくに廃関になっていて、

芭蕉一行もあっちこっちと関の跡を探した。

そのせいかどうか、この“白河の関”の段は、

あとで書かれた。

発句(俳諧なので、こう言うが)も俳諧書留には

早苗にも我色黒き日数哉

西か東か先早苗にも風の音

を残しているものの本文には曾良のを載せている。

本文はこの段も素晴らしいのでそのまま書くと

心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて

旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。

中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。

秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり。

卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる

心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の

筆にもとどめ置かれしとぞ。

 卯の花をかざしに

    関の晴れ着かな       曾良      

文章は「茨の花の咲き添ひて」以外はすべて

古歌を下敷きにしているものの色も盛られて

綺麗な文体だ。

白河の関は能因法師の歌なしには語られない:

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

やはりどうしても訪ねてみたい場所だ。

Photo

http://www.shirakawa.ne.jp/~kyokai/kankou/legend/index.html

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